2015年2月2日月曜日

カトリックについて③

カトリックについて③

   『 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌がわかれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるまま二、ほかの国々の言葉で話しだした。』

    霊の力と言えば日本人一般には守護霊とか、霊界のことと考えがちであるし、あるいは、人間に固有の(誰にでもという訳ではなくても、特別な資質の人間にとっての)超能力と考えがちである。しかし、聖書で言われる霊は、創世記の初めから、ヘブライ語で「ルアハ 」(息吹、風)と言われ、天地万物を造り、生かす神の生命の力、働きのことである。この神の霊、聖霊をキリストは自らの代わりに父のもとから送ると約束された。この賜物を受けて「教会」(エクレーシア)が誕生したのである。

    父と子と聖霊の名によって初代教会で洗礼が行なわれ、使徒継承の教えを受け、お互いに祈り、告白し、相互に交わりながらパンを裂いた。

   カトリック教会はこうして生まれ迫害の中でも数が増えていった。さらに、キリスト教会の中に異なる教え(異端)が現れた。こう言う厳しい状況の中で信仰を生きるには二つ道があった。表面には何でも妥協して、上手くやっていく、いかざるを得ないというあり方。もう一つは、例えどんなに厳しすぎても妥協策を取らず、信仰を貫き通し殉教に至るまでイエス・キリストに従う。カトリック教会は後者を選択した。それを可能にしたのは、それらの信仰者が固い決心で迫害に耐えただけでなく、聖霊の導きによってキリスト者となった彼らは聖霊に護り導かれて信仰の生涯を全うしたのである。

   使徒達の後の時代に生きて、教会指導にあたった人々を使徒教父と言う。そうした人々の書き残したものなどにも、礼拝や洗礼式などの際に用いられたと考えられる定式が、洗礼の問答や、告白文の形で見つかるn。起源二世紀半のローマでは今日「使徒信条」として知られ、唱えられているものの一歩手前ともいうべき「古ローマ信条」と言われる。

2015年2月1日日曜日

カトリック教会について❷

カトリック教会について❷

    聖書の中でイエスが頻繁になさったことで、影に隠れているのは神に祈った出来事である。イエスは祈りの中で神がご自分に何をお望みになられているのか、探っておられた。そして、それを与えてくださることを確信して祈られた。

    そして、イエスの真の願いは、父なる神がみなにあがめられることだった。神が人々の間で毎日の生活の中、生き方の中心の価値観となる事こそ人の生まれてきた意味なのである。

    四福音書には共通してイエスが自分の死が差し迫っていると、弟子たちに告げ彼らは理解に苦しむ。そして、受難と死に向かう準備として最後の晩餐を制定なさった。パンとぶどう酒をお取りになり聖別され、これはわたしの体と血そのものでありこの記念の儀式を再臨の時まで忠実に執り行え 、これを食べ飲む者は永遠に生きると仰せになった。これが今まで忠実に守られているミサ聖祭の起源である。カトリック教徒はミサ聖祭のたびにイエス・キリストの受難と死を記憶し、神の国の恩寵を戴くのである。  

   イエスは最初、最高法院の裁判にかけられ死刑判決が下された。ユダヤ人たちは次にローマ総督ピラトに身柄引き渡しをする。ユダヤ人だけでは死刑執行の権限が与えられていないからである。ピラトは気が進まなかったが、ユダヤ人が騒ぎだし暴動が起こりそうなのを見ると責任をユダヤ人たちになすりつけて、十字架刑にせよ。と、言ってしまった。

     イエス・キリストはなぶり者にされムチ打たれ、十字架を担いでゴルゴダの丘につき、十字架が立てられ釘付けにされた。イエス・キリストは死の苦しみと闇のどん底にあって、なおも神を信頼し呼びかけることを忘れずにいた。そして、イエス・キリストは死んだ。

    イエスは復活した。終末においての新しい天地創造をイエスが先取りなさったと言う事である。と言う事は私たち信じる者も新しい天地創造において、復活出来る希望が与えられるということである。


カトリック教会について

カトリック教会について

    カトリック教会は、聖書を大切にする。この書物は実に1,800言語に翻訳されている。日本に、カトリックの教えをもたらしたのは聖フランシスコ・ザビエルでありそれ以来、様々な翻訳が試みられている。1987年にはカトリックとプロテスタントの共同で【新共同訳】が出版された。

   話しはかわるが、聖書の核心部とはイエスの宣教活動においての『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』という所である。財産や地位を追い求める社会の中で、ただ神の意志の行なわれることを求め、神の正しいはからいを信じて生きようとする者は、あるいは人々に軽んじられ、悲しい思いをさせられるかもしれない。けれども、その人たちの中に神の愛の支配が始まる。

   人間が自分を造った方を忘れ、自分中心に生きること、それは罪の生き方にほかならない。人間は、その罪の結果、無秩序と闇に閉ざされて、不幸になってしまう。イエスは、そのような罪の生き方から立ち返って神に向かって生きるよう、人々に呼びかけた。父である神は、、遠く離れ去った人間が立ち返ってくるのを、一日千秋の思いで待っておられれる、と語った。

    イエスは度々盲人の目を開けたり、足の不自由な人を立ち上がらせたりなさった。この出来事は、神の国が到来している目に見えるしるしと言えよう。ちょうど納屋の引き戸を開ける時、僅かなひかりが暗闇に差し込むようだ。神はご自分の方から闇の中で呻吟している人々の生活に入り込んで来てくださる。

    自分の命、自分のしあわせ、自分の自己実現ということばかりに固執する者は、かえってそこから遠く離れる。逆に神と人々の生活を豊かする、心がけを持てば人間性が増し真の幸福と自己実現をもたらすのである。